身になる 教育 を 受けるには?
会社の指示、自己啓発で勉強してましたか?サラリーマン時代には会社の研修所を利用するなど 教育 を受けていました。しかし、「あの時ちゃんとちゃんと勉強しておけばよかった~」って思った経験があります。言い換えると、自分自身の血となり肉となっていないという現れでしょう。 身になる 教育とは何なのでしょうか?
無意識の内に思考のなかに組み込まれたものこそ教育の最終形
教育の確認する中で視覚的に確認できるもの。
それは・・・
テスト(試験)ですね。
ただ、一夜漬け、たまたま、勉強したところがテスト問題と同じだった!
そういう経験ありませんか?
教育とは学校で習った全てのことを忘れてしまった後に、自分の中に残るものを言う。
アルベルト・アインシュタイン
結局のところテストで良い点数をとって誉められたとしても、アインシュタインの言っていることとはほど遠く、テストの点数はその場限りの記憶力勝負であり、本質的なところからすると無意味な結果です。
しかし、日数がたった後、忘れた頃に同じようなテストを実施した結果、良い点数がとれた場合は別問題です。
これは明らかに、血となり肉となった結果。教育したに費やした時間の賜物です。
それこそが、教育の目指すべき最終形だと思います。
教育を有意義にするために
では、どうすれば、教育が有意義となり、無駄なく血となり肉となるのでしょうか?
これは、経験則のよるところも大きいので、賛否両論あると思いますが、明らかに言えることがあります。
それは、
- 教育する目的を理解しているか?
- 教育にかかる費用以上にスキル・知識を吸収しているか?
この2点に尽きると思っています。
それでは筆者の解釈を次に記載します。
1.教育された後の自分をイメージしているか?
『教育する目的を理解しているか?』
上手くいかない典型的な例として、手段が目的になってしまっていることがあります。
教育も同じで受講する・聴講することが目的となり、その時は理解したつもりで、後日他者に説明する時に要約が説明できない。
「あれ?ちゃんと居眠りせずに聞いていたのに・・・」(当たり前ですが・・・)
よくある話です・・・受講させる上司の身になったら悲しいですね。
その場の雰囲気や瞬間記憶(短期的記憶)で理解したつもりになっている。
それが原因なのですが、なぜ、そうなってしまうのか?
往々にして、受講するということは知らないことを吸収するわけなのですが、いわゆる予習ができておらず、ついていくのが必死になってしまう。。。転けたとしても、無情にも時間は、刻一刻と過ぎていく。。。
学生時代によく言われませんでしたか?予習復習が大事だと。
これは、
- 予習することで、知識を吸収する準備をする。
- 復習することで、(知識の反復ではなく)理解度の確認をする。
と、少し話はそれましたが、受講する目的、即ち受講後の姿をイメージしていないので、事前準備を怠ってしまいます。(気が緩むと、怠けてしまう。だって人間だもの・・・)
教育を受講して、新しい仕事にチャレンジする。部下や同僚をひっぱっていく。色々姿はあると思いますが、その際は、出来るだけカッコいい姿をイメージしてください。
ポジティブ・前向きの意識を持つことで、楽しみながら教育を受講できる。
みなさん、楽しい記憶はいつまでも記憶に残っていませんか?
(もちろん、逆の悲しい記憶も残ってしまいますが・・・)
いかに、心の準備をして、脳内に焼き付ける。肉とするわけですね!
2.その教育を自分で開催した時お得感はあるか?
『教育にかかる費用以上にスキル・知識を吸収しているか?』
当然ですが、教育を開催する側はボランティアで実施しているわけではありません。
中にはありますが、ビジネススキルを取得するための教育は、ほとんど無償ではないですね。
その費用もピンキリですが、決して安くはないわけです。
(もし、その共有がなければ、必ず確認することをおすすめします!)
教育する側になったつもりで、「この教育はリーズナブルすぎた?」と思わせる位、専門知識を吸収する。
それが、教育する側にとっても、受講する側にとってもWIN-WINな状況ですね。
さいごに
ここまで記載した内容について、当たり前と思われるのであれば、大丈夫。
「ふーん・・・」「なるほど」と思ってもらえるのであれば、次からの教育ではひとつでも意識してみてください。
今まで以上に知識を吸収すること間違いなしです。
ご自身の血となり肉となることを想像して。。。むふふっwと笑みを浮かべてください。
(そういう顔をされているのをイメージすると筆者もむふふっwとなっていることは放置してくださいw)と
肉をつけすぎても、知識のメタボにはならないので、どんどん吸収していきましょう!